優柔不断な読書日記

つれづれなるままに本を読むあおやぎたけしの読書日記です。

「人間性」

テレビを普段あまり見ない僕が楽しみにしていたドラマがある。
『だいすき!!』
という知的障害のお母さんが子育てをするドラマだ。
まず設定からずるいが、ゆずの屈託のない素直な愛情に案の定泣きながら鼻水をじゃんじゃん出しながら見る。

第一話は非常に面白かったので良かった。
ショートカットの香里奈がとてもかわいかったし、演技も良かった。
来週も楽しみだ。ドラマなんて観るの何年ぶりやろ。

実は僕も現在、うつで病院に通院し、障害者自立支援法の精神障害者(っていうほどでもないけど)該当ってことになっていて、自立支援法の適用により保険料を一割負担にしていただいている。
だから、僕もゆずの仲間ともいえるかもしれない。
しかし、精神障害者についてはほかの障害を持っている人に比べてスポットライトを当たることが少ない。このことについてはやはりまだまだ差別意識が払拭されていないというところがあるのだろうか?
まあ、僕のようなごく軽度のうつは「障害」とはいえないけれど。
統合失調症などのひとの実際の現状が社会に認知されているかといったら疑問符がつくだろう。


それから、春に公開予定の映画『潜水服は蝶の夢を見る』もおすすめです。





最後に、「だいすき!!」のhpにあった「知的障害について」を引用しときます。


(1) 病気とは違います
 知的障害とはどのような障害なのか、日本の法律では定義はされていません。
 目や耳の不自由な人、車いすの人などは障害があることがわかりやすいのですが、もともと知的な能力は高い人もいれば低い人もいて、どこからが障害と判断するのかについてもいろいろな考え方があります。
 実際は次の三つの点から検討されることが一般的です。

18歳未満の発達期に障害があらわれていること。
お年寄りの認知症とは違うということです。
知能指数 (IQ) が70未満であること。
標準は100ですが、IQ 検査は何種類かあり、検査によって数値が違ってきます。
年齢に比べて、身の回りのことや学習などの社会生活能力が低いこと。
 障害は病気とは違って、治療や訓練をすれば「治る」というものではありません。ただ、家族や友だちや周囲の人々が障害についてよく理解し、障害のある人が育ちやすい環境を整えてあげることによって、社会的生活能力は向上していき、福祉の援助が必要ではなくなる人もいます。
 それでも、障害がなくなるということではありません。その人の個性や特徴の一つになっていくようなものかもしれません。
 また、知能指数 (IQ) 検査は、言語が理解できないと数値が低く出る傾向があるなどの批判もあります。最近はイラストや図などによる説明が多く見られるようになり、現実に生活していく上での「知能」と IQ とのズレが大きくなっていると言われています。

(2) 知能について
 そもそも、知能とは何でしょう。IQ 検査などでは、言語理解、数、空間、記憶、知覚の速度、推理などについて調べ、その人の能力を数値で表しますが、それだけでは説明がつかないことがたくさんあります。

 知的障害者や自閉症という障害者の中には、一瞬のうちに目の前の風景を細かいところまで記憶に焼き付けることができたり、数字や日時に関する記憶や処理能力が優れ、天才的な一面を見せる人が少数ですが、います。

 また、過去の体験や学習で蓄積された知識と、新たな状況に適応するため柔軟に変化する知的活動に分けて、知能をとらえる考え方もあります。新たなことに柔軟に対応するためには、どれだけの知識が蓄積されているかが重要だというのです。
 一方、新たな対応が体験としてさらに知識を蓄積していくわけで、その人がどのような環境や人間関係の中で暮らしてきたか、どのような体験をしてきたのかが、知能に大きな影響を与えるというのです。
 数学や理科の勉強ができたり、難しい漢字を書けることだけが知的能力を測るものさしではないのです。

 厚生労働省の平成17年調査によると、知的障害のある人は54万7,000人で、そのうち施設で暮らしている人が12万8,000人、地域で暮らしている人は41万9,000人です。だいたい4人に1人は施設の中で生活しているわけです。
 多くの先進国では、障害があっても施設で管理された生活を強いるのは権利侵害ではないかと考えられ、障害のない人と同じように地域で生活するようになってきました。これをノーマライゼーションといいます。

 障害者だって恋愛もします。幸せな結婚をしたいと思う人もいます。赤ちゃんを産む人もいます。大切な人を失い、悲しみに襲われることもあります。仕事をして認められたい、お金を稼ぎたいとも思います。だいすきな人を抱きしめたいとも思います。
 人生の中でさまざまな人とめぐり合い、楽しい思い出や悲しい出来事をいっぱい経験し、そうして蓄積されたことが知的能力を育んでいくのです。

(3) 原因
 環境や人間関係が知能に大きく影響するとしても、人はそれぞれ生まれながらにして知的能力が違います。どうしてなのでしょうか。
 たとえば、ダウン症という知的障害は染色体が一般の人とは違うために発生します。なぜ染色体の違いが出るのかはよくわかっていません。
 妊娠中に薬の副作用やさまざまな有害物質を吸引したり、生まれてくるときに難産のために脳に何らかの損傷を負ったり、酸素をうまく吸えなかったりするために知的障害になる場合もあります。
 遺伝によって知的障害があらわれる場合もありますが、いずれにしても詳しいメカニズムはよくわかっていません。

 身長が人によって違い、走る速さも人によって違うのです。知的能力が人によって違うのは不思議なことではありません。
 足が遅い人でも一生懸命に努力すれば速く走ることができるようになります。
しかし、あまり努力をしなくても生まれつき速く走ることができる人もいます。
どんなに努力しても追い越すことができない場合もあります。

 しかし、努力するのは無駄なことでは決してありません。努力することによって自分の中に充実感が広がったり、がまん強さが身に付いたり、心が強くなったりします。困ったことに直面しても、努力して身に付けた強さによって乗り越えることができたりするものです。
 精一杯がんばっている人は周囲の人々に勇気や感動を与えたりもします。
 知的障害の人だって、努力をすることでいろんなことができるようになります。歩みは遅いかもしれません。努力していることが周囲にはわかりにくいかもしれません。それでも、一生懸命にかけがえのない人生を生きているのです。それは、障害のない人と同じです。

(4) 知的障害は悪いことか?
 背の低い人は努力をしても身長が伸びるわけではありません。肌の黒い人が努力で白くはならず、ひげの濃い人は努力してもひげが薄くはならないのと同じように、知的障害の人は努力をしても障害がなくなるわけではありません。
 では、色が黒いことや背の低いことは悪いのでしょうか? 知的障害があることは悪くて恥ずかしいことなのでしょうか?

 黒人はひどい差別を受けていた時代がありました。今でもそうした差別は残っていますが。色が黒いというだけでバカにされ、レストランに入れてもらえなかったり、プールで泳ぐことを嫌がられたりしていたのです。悪いことをしたために色が黒くなったわけでもなく、黒いことが社会に害悪をまき散らすわけでもないのにです。
 少し前、「3高」という言葉がはやりました。収入が高い・学歴が高い・背が高いという3つの「高」を持っている男性がもてたのです。背が高い人はいまでもカッコいいと見られたりします。
 色の白い人が好き、背の高い人が好き…… というのは、それぞれの好みの問題なので否定することはできません。しかし、色が黒いことや背の低いことでレストランやプールに入れてもらえなかったり、いじめられたりすることは許されません。
 もしも、あたなた背が低いという理由でレストランに入れてもらえなかったら、色が黒いという理由でプールに入れてもらえなかった、どう思いますか?
 知的障害者は自分が悪くて障害になったわけではありません。病気をうつしたり、何らかの害悪を社会にまき散らすわけでもありません。もしも知的な障害のある人があなたの好みに合わなかったとしても、差別したりいじめたりしたら、彼らはどれだけ悲しい思いをすることでしょう。

 障害者が差別されるようになったのは、戦争や経済成長に役に立つかどうかで人間を評価するようになってからのことだと言われています。
 古い遺跡を調べると、ある民族は牧草を求めて移動するとき、病人や障害者を大切に連れていった跡が見られます。わが国でも障害のある子どもを「福子」と言って大事にしたり、障害者がいる店は繁盛すると言われたりした時代がありました。障害者を大事にする昔話が各地に残っています。
 障害のある人をどう見るのかは、私たち自身がどのような価値観を持っているのかを照らし出すことにほかなりません。その時代の素顔を映し出す鏡のような存在なのかもしれません。

(5) 技術の進歩が障害を変える
 もしもメガネやコンタクトレンズが開発されていなければ、視力が 0.01 の人はれっきとした障害者です。
 もしも車いすが開発されていなければ、立って歩けない人は自分ひとりではどこへも行けないかもしれません。車も電車も飛行機もなかった時代、自分で移動することができない人はおそらくビジネスをはじめとするあらゆる社会的活動から排除されていたことでしょう。

 ところが、手紙や電報が登場すると、歩けなくても手紙や電報をつかっていろいろな活動に参加し、自分の意見も伝えることができるうようになります。
 一方、目の見えない人は誰かに手紙や電報を読み上げてもらったり、代筆してもらわなければ手紙や電報を利用することができません。

 電話が開発されて普及する時代になるとリアルタイムで情報交換ができるようになり、人類の社会活動は飛躍的にスピードアップしました。目の見えない人もまったく困ることがなくなりました。
 ところが、取り残された人たちがいます。耳の聞こえない人です。ビジネスの交渉も、政治的な活動も、恋愛も、あらゆることが電話でのやりとりが中心になると、耳の聞こえない人たちは世の中の動きになかなか付いていけなくなります。

 パソコンが開発されインターネットの時代になると、大量の文字や映像の情報が時間と距離を飛び越えて、目の前のパソコン画面に現れるようになりました。電話時代に取り残されてしまった耳の聞こえない人にとっては、ネット社会の到来はまさに福音です。
 しかし、今度は目の見えない人たちが困ってしまいます。最近は音声対応型パソコンが開発され、だいぶ便利にはなってきましたが、電話が社会的コミュニケーションの主流だった時代に比べれば、目が見えないために受けるハンディは大きくなったはずです。

 このように、障害の質や程度は同じであったとしても、技術の開発や情報伝達のあり方によって、社会生活をする上でのハンディは重くなったり軽くなったりするのです。 現代のように都市化、工業化、情報化が進んでいなかったころ、知的障害のある人はそんなに困っていなかったのかもしれません。

 
(6) 多数だと見えない?
 ある目の見えない男性は言いました。
 障害というのは何でしょうか。どの国でも、どの時代でも、どの地域でも、だいたい障害者は同じくらいの割合で生まれてくるものなのです。ところが、神様がいたずらをして、この町では私のような目の見えない人がたくさん生まれてきたとしたら、この町はいったいどんなことになるのでしょう。考えてみてください。
 そうしたら、私はこの町の市長選に立候補します。おそらく私のような目の見えない有権者の数が多いので、私は市長に当選するでしょう。私にはとっておきの公約があります。
 この町の財政赤字をなんとか解消しないといけない。地球温暖化の防止にも貢献しないといけない。そのために、私はこの町から電灯という電灯をすべて撤去する。どれだけの電気代を節約できることだろう。電気をつくるために発電所の負荷も減らすことができるし、一石二鳥ではないか。私たちのような視覚障害者には電灯なんて何の役にも立たないのだから。
 すると、目の見える市民たちは血相を変えて私のところに飛んでくるでしょう。「市長、そんなデタラメな公約は撤回してくれ。電気がなければ私たちは室内で仕事ができない。夜はどうやって過ごせばいいんだ」
 市長になった私はこう答えます。「まあまあ、みなさんの気持ちはわからなくもないが、一部の市民のわがままを聞くわけにはいかない。少しは一般市民のことも考えてみてはどうですか?」。そう、この町では目の見えない人たちが「一般市民」なのです。

 障害とは何かが<できるか・できないか>なのでしょうか。
 <目が見えるか・見えないか>
 <耳が聞こえるか・聞こえないか>
 <足で歩けるか・車いすで移動するか>
 <学校の勉強ができるか・できないか>

 そうではなくて、どういう特性を持った人が多数なのか。多数の人たちが自分たちに都合の良いようにルールを作り、街や道路や建物を作り、コミュニケーションの方法を決め、そのために少数派の人々が「障害者」というレッテルを張られて、社会の隅に押しやられているだけなのかもしれません。
 多数だと大切なことが見えなくなることがあります。

全日本手をつなぐ育成会理事・権利擁護委員長
野沢和弘

<参考文献>
「発達障害白書2008」(日本文化科学社)
「知的障害のある子といっしょに」(偕成社)
「障害と私たちの社会」(大月書店)
「条例のある街」(ぶどう社)


TBS「だいすき!!」 ホームページから引用

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