ひとはもし決定的に致命傷に至るダメージを人から受けたときに、
加害者に対して赦しの態度がとれるだろうか?
そんな「ゆるし」に関する本を読み終えたのだが、
少し僕は懐疑的に思った。
ひとにとって怒りという感情はどうしても抑えることが出来ない感情だ。
しかしながら、時とともにその感情も薄れゆく。
そういったときに加害者に対し怒りの感情を選択することよりも、
「ゆるし」を選択し、その感情から解放されたほうが心にとってもよいのではないかという提案をする本だ。
しかし、このことは分かちがたくキリスト教的な価値観と結びついていることは間違えないんではないだろうか。
いかにもアメリカ的な発想ではある。
なるほど、確かに人をゆるすということは寛大であり、高尚な選択だ。
でも、人間には決定的に回復が不能なことをされてしまうことがあるのではないか?
たとえば、最近判決が降りた光市母子殺害事件などは断じて「ゆるし」ようがないように思える。
人はそんなゆるしがたい傷やダメージを負ってしまったときに
「いったいなぜ?」とか「どうして?」という疑問が立ち上がってくるのではないかと思う。
そこから傷つけられた者へは、「そのこと」に対する意味を捜し求めずにはいられないような
そんな問いが生じてくると思う。
自分で「そのこと」について語ることができないような、しこりみたいなものが心に残る。
それは反復し又自分に問いかけてくる。
その答えなんていうのはそう簡単に見つからないし、長い時間をかけて消化し、飲み込まないといけない。
そのようなのたうちまわるような問いに身を悶える経験を実際に経なければ、
到底「ゆるし」などに到達できうるとは思わないし、
「ゆるす」ことが最上の答えだとは思わない。